『日本酒学』第6回 ー新潟大学ー
新潟大学で開講されている『日本酒学』の第6回です。
新潟大学の図書館にはこの様なブースが入り口に常設されています。
県内酒蔵の日本酒が置いてあります🍶
これ見ただけで嬉しい人は多いはず!
第5回の記事はこちらをご覧ください。
今回のテーマは
『日本酒の歴史』
講師の方は、酒類総合研究所の理事長である後藤奈美さんです。
目次
前回も、地域性ということで歴史に関するお話が多かったですが、 今回はしっかりとした歴史のお話です。
古代
日本酒の誕生に関するお話です。
日本酒の発祥や、どの時代からお酒がどの様に作られていたかは、書物を参考にするしかないため、お酒に関する記述があったものを遡っていきます。
みなさん知っての通り、縄文時代になり稲作が始まります。
神話のお話ですが、スサノオノミコトが「八塩折(やしおり)の酒」をヤマタノオロチに飲ませ、酔わせて退治したとの記録があったそうです。
魏志倭人伝を参考にすると、邪馬台国や卑弥呼といったキーワードと一緒に、お酒(どのようなお酒かは不明)を飲んでいたとの記載があるそうです。
古事記の記録に、お酒を「献上」したといった記載があり、また「酔う」といった記載もあり、この頃から飲まれていたことは、はっきり分かります。しかしながら、献上品としてのお酒であることが多く、庶民は飲めるものではありませんでした。
この時飲まれていたお酒は、朝鮮半島から伝わってきたものや、それ以外でも、米と麹から作った甘酒なようなものが多かったそう。イメージとして、今と違ってどろっとしているイメージのお酒です。
大隅国風土記に、口噛み酒に関する記述があります。唾液中の唾液アミラーゼと、野生の微生物で発酵してお酒になるそう。
「君の名は」にも出てきましたよね。すごい初期のお酒ですね。
干し飯が水に濡れてカビが生えたので、酒を造った。
という記述があるそうです。
この時代から、「カビが生える」→「酒を造ろう」という知識が浸透していたということが分かります。普通なら、 「カビが生える」→「捨てよう」ってなりますもんね。
また、このことから口噛み酒とカビ(麹)を使ったお酒が共存していることが分かります。
この時代から朝廷による酒造りが始まっていきます。
万葉集などの歌によくお酒に関する記述も出てきます。
僧坊酒(そうぼうしゅ)という寺院で作られる酒も出てきました。
南都諸白という、麹も掛け米も白米を使う醸造法がよく使われていました。
しかしながらまだ清酒は一部貴族のものです。
中世
鎌倉時代から商業が発展してきます。
酒は米と同等の価値のある商品として流通していきます。
酒の製造と販売ができる、「造り酒屋」という施設ができました。
この時代面白いのが、お酒を禁止したり制限したりとの発想が生まれてことかなと思います。
鎌倉幕府は酒の製造・売買を禁止しましたが、朝廷は酒屋を認めて「壺銭」を徴収しました。今でいう酒税ですね。
室町時代になると酒屋は増え、酒造業が急成長してきました。
僧坊酒の名声はさらに高まります。
元々貴族の飲み物だったので、やはり京都でしか広がっていませんでしたが、この頃になると京都以外にも酒屋は広がっていきます。
幕府は、米価の高騰を抑えるために酒造りを制限しました。制限しないと、庶民が米を食べることができなくなり、飢えてしまうからです。
酒造技術は日々進歩していき、この頃から「段仕込み」や「火入れ」により加熱殺菌が出来るようになりました。清酒の原型がほぼ出来上がりました。
寺院勢力が衰退するとともに、僧坊酒も衰退し、酒造りは各地の造り酒屋へと広がっていきます。
精米技術が未発達だったため、現在の清酒とは少し違ったものだったそう。
この頃からやっと庶民に「片白(掛け米のみが白米)」やにごり酒が残っていきます。
新潟県内最古の造り酒屋はこの頃(1550年頃)創業しました。
近世
今回近世としているのは、江戸時代から昭和時代までです。
江戸時代
各地で名醸地が発達していきます。
設備としてもだんだんと大きく整備されていきます。
この頃は、米年貢が幕府の財源であったため、豊作だと米価が下がり、幕府にとってはあまりよくありませんでした。
そこで、豊作だと酒造りを推奨し、豊作でないときは飢饉にならないために酒造りを抑えるといった、少々ずるい方法で米価を安定させていました。
1837年に山邑太左衛門が宮水を発見します。
酒質が良くなり、水と港に恵まれた灘が酒造りの中心になっていきます。
ここで面白い内容が!
関西(上方)から江戸への酒の輸送(下り物)が行われる様になり、ダメなお酒は送られません。ここから生まれた言葉が、「下らない酒」、「下らない話」。
「くだらない」ってここからうまれたんですね。
江戸時代はさすがに農業の生産性が上がり、武家社会を中心に飲酒が広がってきます。
とはいえ、飲酒はやっぱり特別なものだったそう。
町民は屋台で寿司や蕎麦を食べることはあってもお酒は飲まなかったようです。
この頃から幕府による酒造の統制が行われました。
- 1657年 酒株(酒造株)制度 免許制、酒税
- 1697年 酒株改め(売り上げの5割運上金)
- 1783年〜 天明の飢餓(三分の一造り令)
- 1802年 水害で米価高騰(十分の一役米)
- 1806年 豊作(勝手造り令)
- 1825年 酒造株なしの酒造り禁止
明治時代
1875年に酒株が廃止され、30000場が設立されます。そして酒税の強化が行われます。この当時、国税の3割が酒税でした。
また、醸造技術が科学的に解明されてきて、近代化されてきました。
日清戦争や日露戦争を経て、再現性のある技術をしっかりと作ろうと、酒類総合研究所の前身である国立醸造試験場が設立されます。
後期になり、銘柄のごまかしがなくなり、特別なときにだけとことん飲むようになります。(晩酌として楽しむ)
量り売りも、第二次世界大戦まで続きます。
大正・昭和時代(戦前)
アルコール蒸留技術が向上され、合成清酒が誕生します。
当然精米の技術や酒造技術は高くなってきます。
戦争が続き、米が足りなくなると共に、清酒も減ります。
そこで薄めて売っていました。これは「金魚酒」と呼ばれていました。金魚が泳げてしまうほど薄いという悪口が由来です。
そんなこともあり、1940年にアルコールの濃度の規格が誕生します。
同年、満州国で醪へのアルコール添加試験が行われ、1943年に国内でもアルコール添加が開始されます。
終戦が近づくにつれ、酒類も配給制になります。それに伴い、闇市も増えます。
現代
今回現代としているのは、戦後から平成にかけてです。
戦後、密造酒が横行します。
増醸法(三倍増造)が開始され、だんだんとお酒をしっかり作れる余裕も持て、酒類の配給制が廃止されました。
1950年になると朝鮮戦争による特殊景気によって、密造酒から脱却をすることが出来るようになりました。
造る量と販売力にギャップがあり、未納税取引が増えてきます。
大手清酒メーカーも機械化、ブランド化が進んでいき、地方は特定名称酒を用いた高品質化に進んでいきます。
仕事の変化に伴い日本酒の味が変わってくるのと同じように、飲酒にも変化が起きます。ビールやワイン焼酎などの消費が増えてきます。清酒の消費量は減り、低迷してきます。
また、飲酒が日常化となり、「ありがたみ」がなくなります。
さいごに
清酒の歴史を見てきましたが、今当たり前に飲んでいる日本酒の歴史をしっかりと見ることができ、良かったです。
今回は書ききれなかったものもあるので、是非ご自身でも調べてみると面白いと思います。
昔は日本酒の消費量が本当に多かったんですね。私はビールばっかり飲んでいるので、あまり想像がついていませんでした。
今後、清酒の多様化、輸出等の方面から、日本酒復興の道が切り開いていくことを楽しみにしています。
今回もお読みいただきありがとうございました。
第7回の記事はこちらです!